just a gamer. splatoon/league of legends/csgo etc.
0
    読書感想文(第4章)

    さて第4章です。

     

    第4章 青山拓央

    まずこの章は2005年に哲学研究者向けに出版されたものを読みやすく手直ししたもの、ということです。読んでいきましょう。

    心と身体との相関関係――とりわけ心と脳のあいだの――を見るとき、ある心的な(mental)出来事とある物的な(physical)出来事との同時性は、重要な意味をもつように思われる。だが、そのような同時性の承認はいかにして為されるのだろうか。また、現象的経験(主観的な意識における経験)が「現在」という時を捉えているとするなら、その「現在」は私と他者のあいだで共有されているのだろうか。

    と、2つの問題提起をします。前者に関してはあまりピンと来ません。日常生活では我々は肉眼で見える範囲のものを見ているわけですから、物的な出来事が起きると同時に「起きた」と感じるからです。後者については、自分と近い距離にいれば現在という感覚も共有できるんじゃないのかな?程度に感じました。

    この後、おもむろに「心身二元論ならこの2つの問いに明快に答えられる」と展開していきます。ただし

    意識と身体の二元論は私にとっても疑わしく、それを擁護すること自体が本章を書いた狙いではない。

    こうも書いているので青山先生は心身二元論支持者ではないようです。

    「遅れ」の懐疑、と題して、何かの出来事が起きてそれが脳内に変化をもたらすまで時間がかかる、ということを書いています。そして

    天敵に出会った1万年後に恐怖の意識が生じることは、十分に想像可能である。たとえ、出会ってすぐに動悸が高まり、叫び声を上げ、駆け足で逃げ出したような場合でさえ、そうした物理的反応ではなくそれに対応する恐怖の意識が1万年後に生じることはありうる。

    こう書いています。流石にこれは暴論というもので、「叫び声を上げている時点でもう恐怖を生じているのでは……」というのが感想です。神経伝達の速度が異常に遅くて1万年後に恐怖を生ずるような生物を想像した場合、これが逃げ出すのも1万年後だろうなと思います。

    同一性と同時性、と題した部分は難解です。

    しかし、物理主義的な観点から、因果の物理的閉鎖性を厳密に支持するなら(中略)意識から物質へと向かう因果作用だけではなく、物質から意識へと向かう因果作用もまた不可能となるはずだ。

    なるはずだ、と書いていますがこれがまず分かりません。この「物質」とは脳のことと読んでいいと思いますが、むしろ物理主義的観点に立つなら脳と意識は不可分という考えに至るのではないでしょうか。意識というのは脳の機能の表れの一つであるからです。

    この後、物質を大地とし、意識を凧とする比喩が登場します。そして「糸の長さをゼロにする試みは容易ではない」といったことを述べているのですが「いやゼロだろ」というのが正直なところです。そもそもこの比喩があまり適当でないと感じます。注釈でも青山先生自身「この比喩はかえって理解しにくいかも…」といったことを書いていますがその通りだと思います。私の感覚で言うと物質(脳)をオーケストラとし、奏でられる音楽が意識、というのが意識の理解に近いものです。糸に当たるものは特に想定しなくて良いと思います。

    しかしこういった私のような考えは「随伴現象説」と哲学では呼ばれているようです。「意識と物質との時間的距離をゼロとみなすのは、信念の表明であって説明ではない」とも述べていますが、脳内での神経伝達の速度を考えるとほぼゼロと言っていいのではないでしょうか。これが、糸を想定しなくていい理由です。

    この後、「スーパーヴィーン」という考え方が出て来ます。

    性質の集合 A が性質の集合 B にスーパービーン[(スーパーヴィーン)]するのは、次のときであり次のときにかぎる。必然的に、任意の[個体]x と[個体]y について、もし x と y が B に属する性質のいずれによっても区別されないならば、x と y は A に属する性質のいずれによっても区別されない。

    心的状態は脳状態にスーパーヴィーンするが、その逆のスーパーヴィーニエンスは要求されない。かみ砕いていえば、ある脳状態が成立するときいかなる心的状態が成立するかは決まっているが、ある心的状態が成立するときいかなる脳状態が成立するかは決まっていない(後略)

    これを読んで、率直に言って「哲学者が話すことではないなぁ」と思いました。哲学より心理学とか神経生理学とか脳外科学寄りの話かなと思います。別に、哲学者が話していけないテーマなんてものは無いと思いますが、他に適役がいるのではという感覚です。

    引用した部分について、こういうことは言えると思います。例えば生きているヒトを捕まえてきていきなり脳にドリルを刺して脳を十分に破壊したとしましょう(死なないように脳幹だけ残して手早くやります)。もう一人捕まえてきて同じように脳を破壊します。この時、どちらも心的状態としては「無い」「意識も無いし心的状態が存在していない」と言えるでしょう。これはある脳状態が成立していてそれによって心的状態が決定している例です。

    さて、2人のヒトを連れて来て「殺す」と脅しながらナイフを突きつけます。2人にはおおまかに言って「恐怖」と呼ばれる心的状態が成立しているでしょう。この時、ミクロでの2人の脳の構造は違うわけです。これを持ってして「いかなる脳状態が成立するかは決まっていない」とは言えるかも知れません。しかし扁桃体はある程度活発に活動しているだろう、ということは推測できます。これを持ってして「ある程度脳状態が決まっている」と言うこともできるわけです。

    青山先生によれば、引用した部分は「有力な説明」ということらしいのですが、いったい引用した部分が有力かどうか、誰がどのようなプロセスを経て判断しているのかは謎です。他者の現在、と題した部分でもやはり意識が生じる時間差のようなことを語っていて、ピンと来ません。現実離れし過ぎていると言うか……。ヒトを想定して話を展開するのであればヒトの限界から逸脱しないように話す必要が有るのではないかと思います。

    補遺の部分は現在主義にも触れているのですが、少し言葉遊びの感が強くて空転している感じです。

    「私」の意識のない世界が現在であることがありえないのなら、「私」の誕生前や死後の世界が現在であることもありえないが、現在であることが不可能な時間がどうして「時間」なのだろうか。

    こんな具合で、ちょっと空転の度合いがひどいかなと……。

    高く評価すべき点も有ります。それは青山先生が東プレの Realforce 91 を使用しているという点です。Realforce は静電容量無接点方式を採用した、打鍵感の素晴らしい逸品であり私を含め多くのゲーマーが使用しています。テンキーレスモデルというのも渋い。

     

    第4章コメント 谷村省吾

     

    「対応」という言葉は何を意味しているのか? 「最終的」とはなにを意味しているのか?(中略)では意識状態の定義はなになのか? なにのどのような状態のことを意識状態と呼んでいるのか? 私が「痛い」と感じるその質感のことなのか?

    序盤から質問責めです。まあ仕方無いことでしょう。谷村先生は非常に常識的な解釈、つまり、「痛み」などの感覚は脳の物理状態によって生ずるものですよね、ということをあの手この手で伝えようとしています。「1万年後の恐怖」の話についても「文章としては成立しているけれど実際の実現可能性は無いよね」ということを書いています。全く同感です。

    (前略)私自身は、心と身体(物質)は、階層の異なる概念だと思っている。心的な出来事は、物的な出来事を組み立てた高次の概念であるとでもいえばよいだろうか。(中略)階層の異なる概念を一元にまとめようとしたり、対等の二元として並列させたりするのは、ものごとの適切な捉え方ではない。

    これもその通りだと思います。性質が異なるものであるし、脳が前提となって心が存在するので、切り離して考えたり対置したりはできないものだと思います。大地と凧の比喩にもこの観点からツッコミが入ります。スーパーヴィーニエンスについては流石物理学者らしく、きれいに数式にして表現し直しています。丁寧に引用を交えながら青山先生に批判を加えていく展開が続きますが、総括として「哲学者は取り残されてもよいのか」と題した節を書いています。非常に建設的で良い文章です。特に良い部分を紹介します。

    むしろ私が哲学者に期待するのは、新しい物理学や新しいテクノロジーが垣間見せてくれる世界を適切に捉える新しい言語や概念体系を作ってくれることである。いまの哲学者がやっていることは、その真逆で、宇宙のことも原子のことも知らなかった人間の言語の範囲で無理やり世界を解釈しようとしているように見える。

    新しい知見をちゃんと前提として、その上で物理学者にできないことを哲学者にやって欲しい、という極めて真っ当な主張だと思います。哲学者がこの現代で何をやるべきか、これは私には実のところよく分かりません。しかし荒唐無稽な空想を繰り広げるよりは、もう少しやるべきことが有るのではないか、とは思います。

     

    第4章リプライ 青山拓央

     

    冒頭から「意識」という言葉について語ります。谷村先生が書く「意識」は「心理的機能」のことであり、自分の書いた「意識」は「主観的で現象的ないわゆるクオリアに関わる狭義の意識」である、として、批判を「かみ合わないものとなっている。」と退けます。これには読者の私も肩透かしを食らった気分です。クオリアに関わる意識、というものも結局は脳の機能の表れであるわけですから特に谷村先生の批判が噛み合っていないとは私は思いませんでした。その後

    谷村氏はコメントのなかで、「「[……]細胞内のすべての分子・原子・電子たちが物理的・化学的にまったく同一の状態であり、ただ意識状態だけが異なっているということがありうる」というふうに青山氏の文章を読むべきなのか?」と書かれているが、拙論での分析において、その答えはイエスである。

    こう書いているわけですが、これが YES であるなら、意識は脳によって作り出されたもの、という大前提を否定することになると私は思います。一気にオカルトじみてきたなぁ……という感じです。その後、クオリアとか現在主義の話が展開されていくわけですが「〈現在〉についての日常的直観を吟味することは重要だ」なんて書いていて、いやそれって谷村先生が既に「人間の言葉の範囲で無理やり世界を解釈しようとしている」行為じゃないの……と思ったり、まああまり得るものが無いなぁという印象でした。

     

     

    少し前にこんなツイートをしたのですが、このツイートでの意識は「クオリアに関わる狭義の意識」ではありません。でもまあ何であれ脳の機能の表れの一部だよねって意味では別に私のツイートも外していないかなと思います。私が考える意識の専門家というのは基礎レベルでは心理学者や神経生理学者、臨床レベルでは脳外科医や精神科医です。青山先生はそういう人達とも話をしてみるといいのではないかなぁと思いました。

     

    | tec0(てこ) | 現在という謎 | 21:06 | comments(1) | - | - |
    0
      読書感想文(第3章)

      続きです。Twitter の方では青山先生が連続ツイートで所感を述べたり、谷村先生がそれに対して呆れたり、 小林秀章 a.k.a. GrowHair さんが意見を書いたり、といった動きが有りました。しかし私はまだ第3章です。谷村先生の絡んだ章だけ読むことも考えましたが、それだと結局飛ばした章は後から読まないままになってしまうだろうな、と思い順番通りに読むことにしました。

       

      第3章 細谷暁夫

       

      物理学者渡辺慧先生の「復刻新版 時」を紹介しつつ、物理学から見た時間について語ってゆきます。面白いことに、細谷先生も古典論と量子論とで時間について論じ分けています。さらっと一読して感じたのですが、これは2つのことを示唆しているように思えます。つまり1つは、如何に量子論が革命的であって、根本的に物理学を変えてしまったか、ということ。もう1つは、物理学者は時間について基礎知識のような、共通の理解のようなものがあるのだ(個々人で時間の解釈が全然違う、というブレはあまり無いようである)ということです。

      例えば本章では「古典力学は時間反転対称です」「運動方程式が時間反転に対して対称であることは『ある解に対して時間の符号を変えたものも解となっていると(原文ママ)』と言い換えることができます」という記述があります。第2章の「時間の矢はどちらも向くことができる」という話と同じです。またエントロピー増大で時間の一方向性を説明する、というやり方にも簡単に触れています。

      この後、細谷先生は時間について説いていくのですが、記憶の消去=忘却というステップを特に重視して論じていきます。はっきり言って難解です。1分子だけ入っているシリンダーを考え、分子が仕切りの左右どちらにあるかによって0か1かを記録する架空のメモリの話、これがまず難しい…。この思考実験によって「忘却」するために必要なコストを算出するのです。脳が限界に達しつつある中、どう見ても BSD のデーモン君だろうというマクスウェルの悪魔が登場し癒されます。

       

      明らかにdaemon君

       

      そして、この想像上のメモリの変化のステップを分析し、時間発展には2つの種類があるのではないかと提唱します。一方は運動方程式に従う、自然な、予測可能な未来が訪れるもの。他方は観測するまで未確定な未来を孕んだもの。提唱、と書きましたが、これが細谷先生独自の考えなのか、物理学者一般に支持されている考えなのかはわかりません。この後、さらに量子力学の観測について突っ込んだ話になります。難解です。正直、理解できませんでした。特に、「検証公理」という言葉がキーワードになっているのですが、この言葉の定義がわからないのです。有名な言葉なのだろうかと検索しましたが遂にわかりませんでした。

      最後に哲学者に対して4つの問題提起をして終わりです。それらは

       

      1. 物理学を公理化するときに、「検証公理」は必要か?
      2. 物理学の記述を「操作的」「演繹的」に分類する事は妥当か?
      3. 測定者あるいはマクスウェルの悪魔は自然界のどこにいるのか? この問い自体が間違っているのか?
      4. 確率の意味はなにか?

       

      というものです。

      本章の大部分は非物理学者にとっては非常に難解なものであることは間違いありません。しかし印象だけで語れば、細谷先生は(私の思い描く)哲学というものをやっているように見えます。例えば付記で生物学者本川達雄の時間論に絡め、「シラードエンジンのサイクルは、生物の世代交代を思わせます」と語ります。そして物理学よりも複雑な世界を扱った他の学問(高次、と表現しています)でも「いま」の概念が表れる、と触れており、このように分野を超えて俯瞰できる知性を持っているという点に(私の思い描く)哲学者的なものが感じられます。注釈にも雑多でありつつも興味深い思索が記されています。ゴミ分別は頭脳のメモリが使われ、リセットにコストがかかる、とか。

      言うまでもないことですが、哲学者と哲学教授はまるで違います。ショーペンハウエルは『知性について』の中で、前者を高潔な人、後者を前者を飯の種にする卑しい種族と述べています。

      注釈のこの文章は、職業哲学者に対する痛烈な皮肉のように思えました。

       

      第3章コメント 小山虎

       

      小山先生は4つの問題提起に対し、率直に「哲学者一般の回答は存在しないため、私自身の見解を述べる」としてきっちりと4つの回答を書いています。いわく

       

      1. 必要
      2. 妥当
      3. 質問の意味がよくわかりませんが測定できる場所にいるのでは…
      4. 哲学の世界では確率概念は複数あるというのが定説で、どれを選ぶかが問題

       

      という非常に明快なものでした。好印象です。4については私はかなり衝撃を受けました。「確率」という言葉は数学用語であり明確な一つの定義があるものと考えていたからです。この辺は「確率」と「確率概念」の違いなのかも知れませんが。

       

      第3章リプライ 細谷暁夫

       

      細谷先生のリプライも簡単に回答に触れて終わりです。ア・プリプリオリという言葉が出て来たけれどこれはア・プリオリの誤植なんだろうか、それともア・プリオリの強調表現なんだろうか…。4については少し細谷先生の期待したものと違ったのではないかと思います。と言うのも4についてのみ触れていなかったからです。

       

      第3章は全体的に、私の自身に対する読解力の確かさに疑いを生じさせるものでありました。細谷ノート来てくれー!!

      | tec0(てこ) | 現在という謎 | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
      0
        読書感想文(第2章)

        引き続き「〈現在〉という謎」の読書感想文です。

         

        第2章 筒井泉

         

        物理学における「空間」の話から始まります。「物理学は19世紀まで英国では自然哲学と呼ばれていた」ということも語られ、素人としては「へえーー」と驚きます。時間という概念については、生物たる我々が生活している状況の変化を認識するために発明されたのではないか、といったことが書いてあり、これは私にとっての時間の実感に非常に近いものです。空間と時間はそもそも別物だが、時空座標という考え方で共通の土台に置くこともできますよ、と紹介しており、これは本書の副題にも含まれている「時間の空間化」を意識して書かれたものでしょう。この後、ミンコフスキー距離(世界間隔)などの数式が出て来ます。理解できません。しかしこの辺りの記述が重要そうです。

        時間や空間はもはや独立なものではなく、互いに入り交じる同質的な意味を帯びる

        相対性理論では絶対的なものは時間と空間のどちらでもなく、それらが結合した4次元的な時空の中の世界間隔であり、それが慣性系に依存しない普遍性を保持している

        そして特殊相対論の基礎には電磁気理論があり、「実験で確認されており、科学的な事実として無視できない」としています。この部分は哲学者に対する念押しのようにも見えます。計量という概念が出て来てさらに数式が続きます。理解できません。とにかく、一般相対論では時間と空間は不可分なものになるということです。感覚的に分からない(人間の感覚できる範囲を超えている)という感じがしてきますが、偉大なるGPS先輩が引き合いに出され、「正しいんですよー」と言って終了。古典力学で粒子をベクトルx(t)で表したように、量子力学では量子状態をψ(t)で表すので大差ありませんという断り。ただし古典力学との違いは、測定を行わない状況であれば線形変換だが測定を行うと状態収縮(state reduction)が起きる点であると説明されます。

        この後、「時間の矢」の話となります。先に、ミンコフスキー距離などで触れたように空間も時間も一緒くたに扱ってゆけるという話がありましたが

        時間軸の方向には、移動の方向と速度が固定されていて自由に移動できない。この「時間の矢」の問題は、古典力学においても、また量子力学においても、基礎方程式の上からその理由を見つけることはできないという意味で非常な難問である。

        と、やはり時間はちょっと特別なパラメーターだよね、という話になります。

        その後、数式が色々出て来ますが、t の代わりに -t を入れても数式が成り立つので時間の矢は順行も逆行もあり得るのでは、といった話になります。これを古典力学と量子力学の両方で、方程式の上で見せてくれるのですが…筆者自身が

        そもそも、このような議論は方程式から環境に問題をシフトさせただけなので、時間の矢の向きの本質的な説明にはならない

        と書いているように、言葉遊びならぬ方程式遊びのように感じました(繰り返しますが私は物理学のド素人です)。遊びのように感じるのは当然ながら私自身が時間の逆行を実生活で経験していないからでしょう。

        次に視点を変えて、エントロピー増大を「時間の矢」問題の突破口にできないか?という論点に移ります。しかし、そもそもエントロピー増大則は統計的処理が可能な、ある程度大きさがあって自由度の高い系で成り立つので、分子数が多い系では時間が順行して分子数が少ない系では逆行するということになってしまうのでは、とのっけから躓きます。さらに、エントロピーが頭打ちになった時、時間も止まってしまうという解釈にならないか、ということでエントロピーと時間を同一視するのは無理筋という感じがしてきます。量子力学で考えると、そもそも測定が行われるとそれだけでフォン・ノイマンエントロピーが増大してしまうし、孤立系と言えなくなるから問題がある、ということが述べられます。

        結局のところ、量子力学においてエントロピー増大則にもとづいて時間の矢を説明する試みは(中略)成功を得ることは現時点では難しいものと思われる。

        こう結論付け、最後に量子力学の時間対称形式が紹介されて終わりです。理解できなかったのですが、理解できるとここが一番面白いところなのではないかという感じはしました。

        全体を通して、見慣れない方程式が多く疲れたのですが「時間の矢」問題は今なお難しい問題だということはよく理解できた気がします。

        ちなみにこれ、ψとφで囲われた玉を連想したのは私だけでしょうか。

         

         

        第2章コメント 小山虎

         

        「逆行」という言葉を明確にした方が良いのでは、という指摘が入ります。なるほど確かに、と感じます。エントロピー増大を時間の順行と言ってしまうと、エントロピーが増大してから減少した場合は時間が順行して逆行したって言えるの?とツッコミが入ります。さらに鋭く、「そもそもエントロピーが減少したのを逆行と呼んだとしても、エントロピーの減少を測定している人にとっての時間は順行したままでしょう」とツッコミが入ります。なるほど、議論になっている!と思いました。

        次に、時間対称形式における逆行について、「因果関係」という視点を入れるといいのでは、と絡んでいきます。哲学の世界では因果という考えによって時間の矢を説明しようとしてきた、という歴史的背景に触れながら、量子力学の発展が哲学に対しても新しい観点を提供してくれますね、と前向きな感じになって終わりです。

        とても有意義な議論だったのではと感じました。小山先生の話にも突飛なものは感じず、ちゃんとキャッチボールが成立していたように見えました。

         

         

        第2章リプライ 筒井泉

        ツッコミごもっともですね、という感じで始まります。

        量子力学の時間対称形式における時間の順行、逆行の問題は研究者間においても論争が継続中であって筆者もこれに関与しているが、いまだ結論が得られる段階でなく(後略)

        ということで、むしろ私としては「白黒付いていない最先端の議論を紹介してくれてありがとう筒井先生」となりました。でも時間対称形式ほんとうによくわからなかったので悔しい限りです。

        次に、因果について、これは時間の矢を定めるものというより時間の矢が暗黙の了解として組み込まれた上での話なのでは、と疑問を呈しつつ物理学的に因果関係について説明していきます。光子源と検出器と分配器を組み合わせた実験を紹介し、量子力学においては因果関係というものも(我々がマクロの世界で自明なもののように思っているほどには)確かではない、ということが紹介されます(こういう理解でいいのか少し自信がありません)。

         

        第2章はお互いの立場を尊重し合うような交流が見られ、非常に良い読後感でした。

         

        読み進めるのはだいぶ骨が折れるのですが、お楽しみの第4章が待っているので第3章も読んでいくことにします。

         

        | tec0(てこ) | 現在という謎 | 19:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
        0
          読書感想文(第1章)

          1年以上ぶりのblog更新ですが全くゲームと関係無い話です。Twitterで書くには長い文章になりそうだったので。「〈現在〉という謎 時間の空間化批判」という本を読んでの読書感想文です。

          私自身は物理学者でも哲学者でもありません。物理は高校生の頃センター満点取れる程度にはできたので将来物理学者なんて進路もいいなぁと思っていた時期もありました。しかし、通っていた学習塾のアルバイト学生に物理学科の学生がいて、研究者の道を諦め公務員試験を受けると言っているのを見て「これは思ったより厳しい世界なのでは」と思い直し医学部に進み現在に至ります。というわけで以下感想。

           

          はじめに 森田邦久

          ただたんに物理学者と哲学者から寄稿された論文を集めるのではなくこのように「議論」することで、なんらかの化学反応が起こることを期待した。

          面白そうです。期待できそうです。

           

          しかしその後、「現在という言葉には指標的現在と絶対的現在があって、一般的に国語辞典では前者の意味が載っているが、本書タイトルの現在というのは絶対的現在を意識したもので、絶対的現在とは発話者と相対的ではない、特権的な時点を指す」ということを書いています。まずこれが分からない。このように日常会話で用いられている平凡な語に特別な(しかもわかりにくい)意味を与えるのは止めた方が良いと思いました。その後も「4次元時空には過去や未来も含まれているが、なんらおかしな言明ではない」など突飛な文章が並びます。そしてこの4次元時空について特に解説無く次の文章で「さて、そうだとすると」と繋げていくのですが、読者を置いてきぼりにしている感が否めません。「読者であるあなたは4次元的な存在者として存在しているだろう」と言われても読者であるただの人間である私が突然定義も無しに現れた4次元時空なるものの中でどう生活しているのか、私はそこで物を考えたり何かを観ることができるのか、さっぱり想像が付かないわけです。

          問題は、もしこのような指標的現在しか存在しないのだとすれば、「時間が経過する」とはどういう意味かが、少なくとも即座には理解できないということである。

          私は現在という言葉を指標的現在の意味で使ってきたし、なおかつ時間が経過するということの意味が理解できるので、何を言っているのかよくわかりませんでした。

          指標的現在しか存在しないならば「1分経過した」とはどういう意味だろうか。

          1分経過したという意味だと思います。

          この後もよくわからない問いが続くのですが、天動説を引き合いに出して「人間の直観は頼りない」とする部分は頷けました。

          現在主義は〈現在〉に存在するもののみが存在するというモデルであり、「なにが存在するか」は「〈現在〉にあるかどうか」で決まる

          よくわかりません。例えば私が今持っているボールペンは存在していますが、これは工場で完成した時から私の手元に届き今の今まで存在しているとしていいと思います。となると〈現在〉(=絶対的現在)というのは瞬間ではなくだいぶ長い幅をもった時間なのでしょうか。そもそも存在という言葉の使い方が日常会話で用いられるそれとは別物なのでしょうか。

           

           

          第1章 谷村省吾

          第1章に、谷村先生の概説的な文章を持ってきたのは非常に良い構成だと思います。力学のために時間が必要だったこと、相対論における時間、量子論における時間。これらに過不足無く触れていきます。過不足無くというのは私のような素人にとってということです。数式を紹介しつつ、数式に深入りせず「要はこの数式はこう解釈すれば良いのだ」と説明してくれています。率直に言って面白く、引き込まれます(このノリでブルーバックス一冊書いたらすごく売れるんじゃなかろうか…)。個人的にこの行(くだり)、すごく面白かったです。

          ある物体が「力を受けていない」ことはどうしてわかるのか? 慣性系から見て等速直線運動していることからわかる。その座標系が慣性系であることはどうしてわかるのか?(中略)この物体は電気的に中性だから電場から力を受けていないと思われ、周囲には空気も床もないので摩擦力も受けていないと思われるなどの諸条件が満たされるとき「この物体は力を受けていない」と推定されるのである。

          さらにデイビッド・マーミンの現在の考え方を紹介し、批判することで自身の現在についての考えを明確にしています。そして問題の現在主義については真っ向からこう言い放ちます。

          私には、言葉づかいの観点からして現在主義の言いたいことがよくわからないし、物理学の観点から言ってこの命題は意味をなさないと思う。

          最後に、過去すら確定されたものではない、つまりミクロ系では過去すら不定である、といった物理学の成果を紹介して章を閉じます。議論の叩き台としてこんなに適切な第1章があるでしょうか。すごい人だと思いました。

          些末なことですが「すべからく」の誤用があります。

           

          第1章コメント 佐金武

          科学に関する二つの問いから始まりますが、前者はいいと思いました。問題は後者。

          種々の科学理論において役割を果たすさまざまな存在者が本当に実在するかどうかを問う。

          具体例が無く漠然としています。また実在という言葉の意味をはっきり定義すべきだと思いました。「存在者は本当に実在するか」という文章はかなり主語が大きくて抽象的です。よって、何と無くの言語感覚で議論が進行し予期せぬすれ違いが生まれるリスクが高いと思います。それを防ぐために事前に言葉の意味を定義すべきではないでしょうか。

          現在主義というものについて解説が入ります。

          現在主義は決して、私の現在(私の心を占めている現在)と実在(存在)の一致を主張する立場ではない(ただちに矛盾というわけではないにせよ、そのような独我論的主張は現在主義にとって必須の構成要素ではない)。

          よくわかりません。しかしこの後、もう少し平易に書いてくれています。

          なにが現在であるかが主観的な問題であることを否定するのが現在主義である。仮に人間や意識をもったその他の生物が宇宙に存在しなかったとしても、なにが現在であるかは客観的事実として成立しており、そのようなものだけが存在する、これが現在主義の主張なのである。

          この文章は理解できます。非常にわかりやすい。現在主義というのがこのようなものであればそれは宗教とかオカルトであろう、と私はこの時点で結論付けました。知的生命体が宇宙に存在しなくても「現在」というものが存在する、というのは、これはもう宗教でしょう。この後、対立する概念として「永久主義」が紹介され、物理学者は永久主義的なものの見方を好むのではないかという所感が述べられます。

          現在主義の中心的主張を次のように理解する。

           ●現在(である)とは存在(すること)である。

          さて、現在主義から帰結する絶対的同時性とは、現在(存在)によって規定される、次のような(擬似的な)関係である。

           ●AとBが絶対的に同時であるのは、Aが現在であり(存在し)、そして、Bも現在である(存在する)ときかつそのときに限る。

          この辺りから本格的に言葉遊びの様相を呈してきていると思います。現在とは存在である、という文章は率直に言って意味不明です。先にボールペンの話を挙げましたが、現在でなくても存在していたものはあるわけで、前提からして首肯できないと感じました。「世界は気持ちである」、「生命とは過程である」、主語を大きくして何だか大層なことを言っているような文章は誰でも作れます。

          物理学はたしかに、世界にどのような種類の存在者が存在するかについて重要な情報をもたらす。たとえばニュートリノなる存在者はその存在が認められるが、エーテルの存在は認められていない。他方、世界に何が端的に存在するかは物理学に依存しない。

          これもよくわかりません。端的に存在する、というのと、存在する、というのとではどう違うのでしょうか。実験をしなければ存在が明らかにされない、という意味で物理学の限界を指摘しているのでしょうか。物理学では存在が明らかにならないが、それでも存在しているものがある、という主張であればこれはかなり宗教に近い考えだと思います。

           

           

          第1章リプライ 谷村省吾

          これには私は面食らう。なにが現在であるかは客観的事実として成立していない、というのが、まさに特殊相対論および一般相対論の帰結であり、私が話したり書いたりしたことだったからだ。

          第1章をちゃんと読んでもらえなかったのかな?という悲しみが谷村先生の筆致から伝わります。佐金先生のコメント7ページに対し怒涛のリプライ28ページです(!!)。丁寧に、自分自身は現在主義でも永久主義でもない、量子論レベルで言うと量子消去という現象があり、未来に行われる測定を行うまで過去の出来事が確定しないケースがある、と説明します。しかしこれとて第1章で既に説明済みの事柄です。正直悲しい。

          私には佐金氏が提示した《現在(である)とは存在(すること)である》という言明がわからなかった。

          と書きながらも、「たぶんこういうことを言いたいのだろう、と解きほぐし」て懸命に説明をしています。とても誠実だと感じますしこういう歩み寄りの姿勢が分野を超えた交流では必要なのではないでしょうか。リプライすべてを要約することはしませんが、佐金先生の一行一行をしっかり読み込んでしっかり反論を加えています。最終的には佐金先生の「道具主義」「悪しき実用主義に反省を迫る」という文章に対し「我々はすでに量子論と相対論に基づいて動いているGPSの恩恵に与っているじゃねーか!」「言葉選びをちゃんとしろ!」と半ギレになって終わりです。

           

          ページ数で言うとこれでも全体の20%くらいです。物理学者でも哲学者でもない私は純粋にこの噛み合わなさを楽しんで(面白がって)いますが、私は谷村先生に同情的です。私は本書を買うまで、ずっとこの先も延々と谷村先生 vs. 哲学者の掛け合いが続くのかと思っていたのですがそうではなく、物理側からは筒井泉先生と細谷暁夫先生が文章を寄せています。と言っても私に全然なじみの無い先生方なのですが、本書の箸休めにと手に取った数理科学7月号(amazonで売り切れだったので最近取り寄せたばかり)に細谷先生の原稿があり、不思議な一致を感じました。

           

          長崎ライチ「ふうらい姉妹」第1巻より

          | tec0(てこ) | 現在という謎 | 14:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
          CALENDAR
          SMTWTFS
             1234
          567891011
          12131415161718
          19202122232425
          262728293031 
          << January 2020 >>
          SELECTED ENTRIES
          CATEGORIES
          ARCHIVES
          RECENT COMMENTS
          MOBILE
          qrcode
          LINKS
          PROFILE
          このページの先頭へ